【留学準備】TOEFL初受験
TOEFL iBTを初受験してきましたので報告します。
100点が足切りのところが多いと聞いて僕、真っ青。
事前対策
「いや俺ノー勉だから」などと大学生も真っ青になるレベルのかっこつけをしようかとも考えていたのだけど、2万円を超える受験料の前にはひれ伏さざるを得ず、かの悪名高い「TOEFLテスト英単語3800」のRank2を一通り見てから行くことを決意。3週目(/7週)でつまずく。そのまま当日へ。
当日のタイムライン
7:30
起床。
ハイソサエティーなピープルのワンオブザとして日課の(日課ではない)イングリッシュティーを嗜んで上顎をやけどする。
9:00
御茶ノ水駅に到着。
駅前のスープストックで腹ごしらえ。カレーセットが11時からと聞いてむせび泣く。
そこで気を取り直して、東京ボルシチとやっぱり外せないオマール海老のビスクを注文して気を落ち着かせる。
しかし、東京ボルシチをひとくち食べた僕は電撃に撃たれてしまった。なんと、なんと、ボルシチなのにカブが入っていないではないか。僕がカブだと思って食べた白い物体はなんとジャガイモだったのである。(ジャガイモも好きよ、ウォーアイニー)しかしボルシチには赤カブが付き物である。
は はーん、分かったぞ。だからこそ「東京」ボルシチなのか…「東京」を名乗ることでロシア的なそれとはひと味ちがうのだよ!などと言い訳を言っているのだ な、小癪なやつめ。いや、待てよ?しかし、どうだろうか。ボルシチとはすなわち赤カブの煮込み料理である。ボルシチを名乗る以上その本質的特徴を失わせて はならないのであるまいか。ボルシチのボルシチたる所以を失った以上、そこに「東京」の名を冠したところでそれはボルシチではないのではなかろうか。…い や、待てよ、そもそも「ボルシチ」と呼ばれる類は形相(eidos)的に実在するのであろうか………
などとスコラスティックな普遍論争的思索にふけているうちに想定外の時間くつろいでしまった。なお、東京ボルシチはうまかった。
9:30
夢の階段をかけ登り(ソラシティのエレベーターの5階のボタンを押し)、会場入り。
そこに現れたのはオシャンティーで豪華な会場であった。なんか外資系っぽい感じの「PROMETRIC」と書かれた受付。嬉しくなって個室に入ってトイレをする(小の方である)。
その間、プロメトリックのことをググったところ、テスト実施業界最大手、米プロメトリックの完全子会社で、米国公認会計士試験やTOEFLなどの実施を一手に引き受けているらしい。
なお、御茶ノ水ソラシティの会場は、本社所在地で東京唯一の直営テストセンター。スコアが環境で大きく左右されるTOEFLを受けるならここしかないと先輩から聞いていたが、噂に違わぬ設備。(例えば、耳栓代わりの遮音用ヘッドホンがある!)
9:30
自分の受験番号を見つけて、指示通り書類付きのクリップボードを取り、試験室の前に移動。パスポートとクリップボード以外は指定のロッカーにしまう。
その後、30分くらい待たされる。説明資料が全部英文でアイアムジャパニーズ状態。その間に誓約文を書かされるんだけど、なぜか筆記体を指定されてハニワ顔になりながらなんとか終わらせる。
10:10
自分の番号を呼ばれる。緊張。
手首足首に何も隠していないことを確認され、ポケットも裏返され、金属探知機までかけられる。目薬もティッシュもハンカチも耳栓も持ち込みだめだった(先輩が耳栓は持ち込めたって言ってたんだけどな…)。ティッシュを2枚もらえて、無くなったら係員を呼んでねとのこと。
入室。
先駆者たちがアイリブイントッキョーを元気にやっている。
※マイクのボリュームを自動調整するために住んでいる街をしゃべってdescribeせよとの指示があるのだが、無心に「アイリブイントッキョ」を連呼するのがナウい通のやり方らしい。隣席では横浜市の良さを詳細にdescribeしているボーイがいたが、差し当たり春にこっちに引っ越してきた田舎ボーイといったところだろう。
10:20
4時間弱に及ぶ受験が始まる。連続5日間合計40時間弱の試験(※司法研修所の二回試験)を経験した我々にとっては赤子の手をひねるようなものだ、などと余裕をぶっこいて高笑い(無音)していたところ、1時間で3問終わらせるべきReadingなのに、1問終ったところで既に35分経過していた。どう見ても時間不足です、ほんとうにありがとうございました。
12:30
得意のListeningが終わり、コスモポリタンとしての矜持が皮一枚のところで維持される。
ListeningとSpeakingの間は10分の休憩があるらしく、その間はトイレに行ったり、お茶を飲むことを許される。他の受験生と話したり唄を歌うことは禁じられているらしい。その点僕は、イソイソと受験室に戻り、周りの先駆者達のSpeakingの回答を盗み聞き。こんなに聞こえていいのだろうか。僕の回答も聞かれちゃうのか、恥ずかしいわ。壁にミミアリー障子にメアリー。
14:00頃
初受験終了。
僕のライフはゼロ。
Speakingでは何も思いつかないのでUmmm...を連発しネイティブっぽさを見せつけ、Writingでは小学生でも理解できるような語彙と文法で採点者の心を惹きつけたに違いない(違いなくない)。
300単語が公式な目安とされているEssayで要らない文を追加しまくってやっと200単語。全然書けない。思いつかない。一体全体何をそんなに書くことがあろうか(反語)。
総評
TOEFLは怖い。
後日談
点数が返ってきました。
Total 86 Reading 20 Listening 28 Speaking 19 Writing 19
全体的に思ってたよりひどくなかったので一安心。
とはいえ、足切り回避のためには20点くらい上げなきゃ。
「弁護士の質」についての実証研究:若い弁護士の方が質が高い?
太田勝造「民事弁護の質:弁護士による評価」日弁連法務研究財団編『法と実務11』(商事法務2015)より
英国カーディフ大学ロー・スクールのRichard Moorhead等による研究:Moorhead, et al.(2001),Moorhead, et al.(2004:1-2,53-54)にヒントを受けて、東京大学大学院法学政治学研究科教授である太田勝造が行った実証研究の紹介。
のべ95人の熟練の弁護士に、1件につき2人で独立に、計191件の記録での弁護士のパフォーマンスを、評価した。
その評価項目は、
①訴状・答弁書の内容量
②法律構成・論理性
③説得力
④文章力・表現力
⑤法的知識
⑥事実関係の把握度
⑦相手方の主張立証に対する反応の良さ
⑧要を得た立証活動
⑨主尋問の量
⑩主尋問のための準備の程度
⑪主尋問の技法
⑫反対尋問の技法
⑬全体的な貢献度
⑭全体的な能力
すると…
弁護士の修習期が大きいほど、民事弁護の質は高くなるとのデータが得られた。
らしい。
若い弁護士の方が訴訟のパフォーマンスが高い!?という謎の結果。
こちらがその相関関係を示した図。
図は冒頭の論文から引用
太田は、その理由について、
①経験が短いほど手持ち事件が少なく、1件に避ける時間と労力と情熱が多い
②司法試験の勉強の成果により法的知識が新鮮
③手抜きの方法をマスターしていない
などの仮説が考えられるが、それは今後の研究課題であるとしている。
まあ、訴訟の記録だけをみればそういうこともあるのかなあ。
いずれにせよ、こういう実証研究がどんどん増えることで、弁護士全体の仕事の質を向上させるインセンティブが生まれたり、改善のポイントをしることができるようになったりすればいいな。
【追記】
「法と実務」最新号に載ってる太田勝造教授の「弁護士の質」に関する実証研究の対象って59期までで、一番評価の高いのは50期代後半ですよね。この世代ってロースクール出てない、予備校式の勉強だけで合格したとされている世代(だからロースクール作らなあかん!という論拠)ですよね。
— 中村元弥 (@1961kumachin) 2015, 5月 15
ロー卒は60期からだから、59期までを調査対象にしてる実証分析では、ロー卒弁護士の質の低下は分からないわけか。
— ゆりすときのこ™ (@jurist_kinoko) 2015, 5月 15
議論のお作法入門(03) ストリートダンスとしての議論
平行線はどこまで伸ばしても交わりませんし、三角形の内角の和は180°です。これらはある数学分野では当然の前提とされていて、これを証明する必要はありませんし、誰も争いません。三角形の内角の和が180°以上ある世界の話をしたい人は別の世界の数学(非ユークリッド幾何学)の話をするだけです。
数学では、公理系を前提に論理を組み立てますから、論理に問題がなければ結論は1つです。これと同じように特定の宗教(一神教を念頭に置いています。)が社会を覆っている場合には、社会には公理系があります。教典を解釈することで正しい結論が見つけられます(複数の解釈の可能性があることはともかく。)。これに対して私たちの生きる現代の社会では宗教も価値観もバラバラな人たちが同じ社会で共に生きています。誰もが疑わない公理系は存在しないのです。議論の出発点はみんなのバラバラな価値観なのですから、論理(その意味については別の機会に考えてみたいと思います。)に問題がなくても結論は複数ありえます。
このように価値観が多様化した社会ではどうやって紛争を解決したらいいでしょうか。法システムは「議論」によってこれを解決しようとする営みです(少なくとも私はそう考えています。)。
価値観や宗教観を直接闘わせると問題は深刻になります。宗教戦争は双方が正義を信じているので和解が難しいのです。そこで法システムでは議論によって代理戦争をするのです。NYギャングが抗争で相手を殺す代わりにストリート・ダンスで勝負を決めていたのと同じですね。
価値観を出発点、主張を終着点として、論理によってその間を繋ぎます。二つの別々の箱(価値観)から矢印(論理)が伸びてそれぞれの黒い点(主張)を指している状態を想像してもらえれば幸いです。そして、黒い点(主張)が違う場合には、お互い、議論のお作法に従って相手の矢印(主張を支える根拠)を叩きます。論理の綻びや弱点を叩くのです。論理に綻びがあれば代理戦争は終わりです。残った主張が"差し当たりの"正しい主張として残ります。勝った方の矢印の示す黒い点だけが残り、2つの箱と矢印は全部消えるのです。なぜ消えるか。社会で必要なのは今問題となっている食い違った主張のどっちが差し当たり正しいものと取り扱うべきかということであって、価値観それ自体の正しさではないからです。
この代理戦争の良いところは、価値観が違っても主張が同じなら戦争にならないところ、論理に綻びがあれば価値観の対立になるまでもなくルールに従って戦争が終わること、相手の価値観をゆっくり考えて歩みよるきっかけが得られることの他、自分の論理が間違っていただけで本当は相手と同じ価値観を持っていて紛争になる理由がなかったことが発見できる可能性があること、などいっぱいあります。
そして私は社会の紛争の多くは価値観の対立になるまでもなく決着が着くと考えています。
でも議論が進んでも一向にどちらの論理にも問題がなく、価値観の対立まで進んでしまった場合(さっきの例で言えば、矢印に問題がなく2つの箱がまだそこにある状態を考えてください。)にはどうすればよいでしょうか。この点は議論の話を離れますのでいつかまたの機会に考えたいと思います。要約すると、議論によって歩み寄りの準備ができている場合が多いけれど、それでも問題が解決しない場合には最終的には「力」によって決めるしかないと考えています。
これにて、議論のお作法入門は終わりです。
議論のお作法入門(02) 築き上げる為の議論
あえて言い切りたいと思います。
議論とは勝つためのものではありません。議論とは築き上げるためのものです。より高みに登るための共同作業です。でも人間とは面白いもので真剣に取り組むためには何かしらの「しるし」が必要なみたいです。走り高跳びでは、バーがないとあの高さは飛べないと聞きます。議論も同じです。きちんと議論するためにはバーが必要なのです。それが勝ち負けです。手段としての勝ち負けです。
勝つだけなら簡単です。包丁を持って相手に向かってぐさっと一刺しすれば良いのです。相手は死んで僕は勝ちます。もうすこし現実的に言えば、相手の人格を攻撃して侮蔑すればよいのです。キモい、みんなお前のこと嫌いだよ、口が臭いから黙って、等々。
反論ができない仕組みになっている主張も同じくらい暴力的です。例えばこんなものです:普通じゃない、みんなそうは思っていない、お前も大人になれば分かる。大人にならなければわからないのだから反論のしようがありません。それはその主張が正しいからではなく主張のしくみ・構造の問題です。反論ができない主張は議論にならないので築き上げるための議論にはなりません。
正しい議論の方法とはどんなものでしょうか。
まず、自分の言いたいこと(主張)には必ず「なぜならば〜」(理由)をつけます。相手も同じことをします。この理由同士を闘わせるのです。議論のゴングがなります。議論が開始されたら、まず、相手の主張を先に考えます。自分の主張を先に考えてはいけません。準備なくして勝ち目はありません。まず相手の主張の意味、正しい範囲、相手の主張を支える理由の正しさを徹底的に考えます。これを相手任せにしてはいけません。相手が言っていないことであっても、相手の主張の理由が正しい可能性を徹底的に考えるのです。その過程でぐぬぬ…となったら儲けものです。昨日まで正しい可能性があるとすら思っていなかった新たな主張を手に入れたのです。喜びましょう。
相手の主張にどうしてもだめなところ、論理の綻びとか理由の弱さを見つけたら攻撃開始です。叩き叩き叩きまくります。相手の主張を殺すつもりで叩きます。ここで大事なことがあります。相手の主張だけを叩くのです。相手を叩いてはいけません。でも時として人は間違えます。間違って相手を叩いてしまったらすぐに訂正して謝ります。
相手も同じように主張を叩きます。叩かれたら徹底的に防御します。でも、ここでおや…?と思うことがあったら休戦します。相手の反論の意味を考えて本当に相手の反論が通らないかを確認します。自分の主張の理由を補強のために修正する絶好のチャンスかもしれません。おや…?を見逃さないようにしましょう。忘れてはいけません。勝つのは手段であって目的ではありません。議論とは高みを目指す共同作業です。
それを続けると、どちらかの主張に綻びが見つかるかもしれません。そうしたら終戦です。とりあえずは"差し当たりの"より正しい主張が決まります。どちらの主張にも綻びが見つからず、当てはまる場面が違うだけだということが分かるかもしれません。結構よくあるのが、実は二人の主張は同じことを別の言い方で言っていただけということです。いずれにせよあなたも相手も議論をする前より高みにいます。昨日知らなかった見方を手に入れたのです。
時間があれば議論の相手と酒を酌み交わし健闘を称え今日の議論の成果を喜びあいましょう。
これが築き上げる議論の正しい作法です。
次回は、議論と価値観の関係について考えます。
議論のお作法入門(01) 議論のできない人たち?
私は小学生の間の数年間、アメリカの小学校に通っていました。
父の仕事の関係でアメリカへの引越しが決まったのは、実際にアメリカに行く数か月前のことで、ほとんど英語がちんぷんかんぷんのままアメリカの現地の小学校に放り込まれたのです。話せる英語といえばspoonとforkくらい。小学校1年生のことです。
そこでは先生やクラスメートの発言を毎日聞いて、また校内のESALという講座に出て少しずつ英語を学んで行きました。
入学してしばらくすると、手を上げて発言するクラスメートがよく口にする単語が気になりました。その単語は一日何回も耳にするもので、私には発音もかっこ良く聞こえました。私はその言葉の関係する職に就くのですがそれは20年くらい先のこと。その単語とは、、
"Because"
そう、日本語で「なぜならば」を意味する"Because"という単語が小学校に入学したてのクラスメートの口からしょっちゅう聞かれたのです。
これは日本の小学校とは大きな違いでした。私は小4で日本に帰国し、日本の小学校に通いはじめましたが、手を上げて同級生が答えるのは「答え」であり、求められているのは主張の「根拠」ではなく「正解」です。
私はその善し悪しを議論するつもりはありません。どちらの教育にも短所も長所もあるのでしょう。しかし、これだけは言えます。日本の教育によって育った日本人が議論をできないのは当然なのです。日本の小学校教育では「なぜ」を問わないのですから。
私はその後日本の大学で法学部を出て法律家になりました。法学とは議論の学問であり、法システムとは議論によって社会をマシにして行く社会システムの一つです(少なくとも私はそう思っています。)。しかし、私は法学部に入り、法律家になりとても驚きました。議論を学ぶ法学部を出た人、それどころか法律家ですら議論ができない人ばかりなのです。
次回は議論とは何か、何のためにあるかを考えたいと思います。
心機一転
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