ゆりすときのこ

まいにち楽しい。

議論のお作法入門(03) ストリートダンスとしての議論

平行線はどこまで伸ばしても交わりませんし、三角形の内角の和は180°です。これらはある数学分野では当然の前提とされていて、これを証明する必要はありませんし、誰も争いません。三角形の内角の和が180°以上ある世界の話をしたい人は別の世界の数学(非ユークリッド幾何学)の話をするだけです。

 

数学では、公理系を前提に論理を組み立てますから、論理に問題がなければ結論は1つです。これと同じように特定の宗教(一神教を念頭に置いています。)が社会を覆っている場合には、社会には公理系があります。教典を解釈することで正しい結論が見つけられます(複数の解釈の可能性があることはともかく。)。これに対して私たちの生きる現代の社会では宗教も価値観もバラバラな人たちが同じ社会で共に生きています。誰もが疑わない公理系は存在しないのです。議論の出発点はみんなのバラバラな価値観なのですから、論理(その意味については別の機会に考えてみたいと思います。)に問題がなくても結論は複数ありえます。

 

このように価値観が多様化した社会ではどうやって紛争を解決したらいいでしょうか。法システムは「議論」によってこれを解決しようとする営みです(少なくとも私はそう考えています。)。

 

価値観や宗教観を直接闘わせると問題は深刻になります。宗教戦争は双方が正義を信じているので和解が難しいのです。そこで法システムでは議論によって代理戦争をするのです。NYギャングが抗争で相手を殺す代わりにストリート・ダンスで勝負を決めていたのと同じですね。

 

価値観を出発点、主張を終着点として、論理によってその間を繋ぎます。二つの別々の箱(価値観)から矢印(論理)が伸びてそれぞれの黒い点(主張)を指している状態を想像してもらえれば幸いです。そして、黒い点(主張)が違う場合には、お互い、議論のお作法に従って相手の矢印(主張を支える根拠)を叩きます。論理の綻びや弱点を叩くのです。論理に綻びがあれば代理戦争は終わりです。残った主張が"差し当たりの"正しい主張として残ります。勝った方の矢印の示す黒い点だけが残り、2つの箱と矢印は全部消えるのです。なぜ消えるか。社会で必要なのは今問題となっている食い違った主張のどっちが差し当たり正しいものと取り扱うべきかということであって、価値観それ自体の正しさではないからです。

 

この代理戦争の良いところは、価値観が違っても主張が同じなら戦争にならないところ、論理に綻びがあれば価値観の対立になるまでもなくルールに従って戦争が終わること、相手の価値観をゆっくり考えて歩みよるきっかけが得られることの他、自分の論理が間違っていただけで本当は相手と同じ価値観を持っていて紛争になる理由がなかったことが発見できる可能性があること、などいっぱいあります。

 

そして私は社会の紛争の多くは価値観の対立になるまでもなく決着が着くと考えています。

 

でも議論が進んでも一向にどちらの論理にも問題がなく、価値観の対立まで進んでしまった場合(さっきの例で言えば、矢印に問題がなく2つの箱がまだそこにある状態を考えてください。)にはどうすればよいでしょうか。この点は議論の話を離れますのでいつかまたの機会に考えたいと思います。要約すると、議論によって歩み寄りの準備ができている場合が多いけれど、それでも問題が解決しない場合には最終的には「力」によって決めるしかないと考えています。

 

これにて、議論のお作法入門は終わりです。