ゆりすときのこ

まいにち楽しい。

議論のお作法入門(01) 議論のできない人たち?

私は小学生の間の数年間、アメリカの小学校に通っていました。
父の仕事の関係でアメリカへの引越しが決まったのは、実際にアメリカに行く数か月前のことで、ほとんど英語がちんぷんかんぷんのままアメリカの現地の小学校に放り込まれたのです。話せる英語といえばspoonとforkくらい。小学校1年生のことです。

そこでは先生やクラスメートの発言を毎日聞いて、また校内のESALという講座に出て少しずつ英語を学んで行きました。

入学してしばらくすると、手を上げて発言するクラスメートがよく口にする単語が気になりました。その単語は一日何回も耳にするもので、私には発音もかっこ良く聞こえました。私はその言葉の関係する職に就くのですがそれは20年くらい先のこと。その単語とは、、

"Because"

そう、日本語で「なぜならば」を意味する"Because"という単語が小学校に入学したてのクラスメートの口からしょっちゅう聞かれたのです。

これは日本の小学校とは大きな違いでした。私は小4で日本に帰国し、日本の小学校に通いはじめましたが、手を上げて同級生が答えるのは「答え」であり、求められているのは主張の「根拠」ではなく「正解」です。

私はその善し悪しを議論するつもりはありません。どちらの教育にも短所も長所もあるのでしょう。しかし、これだけは言えます。日本の教育によって育った日本人が議論をできないのは当然なのです。日本の小学校教育では「なぜ」を問わないのですから。

私はその後日本の大学で法学部を出て法律家になりました。法学とは議論の学問であり、法システムとは議論によって社会をマシにして行く社会システムの一つです(少なくとも私はそう思っています。)。しかし、私は法学部に入り、法律家になりとても驚きました。議論を学ぶ法学部を出た人、それどころか法律家ですら議論ができない人ばかりなのです。

次回は議論とは何か、何のためにあるかを考えたいと思います。